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「茶華道ニュース」2015年3月1日号
「日本経済新聞」2015年5月10日号「美の美」
実行委員会 編
2014年6月11日、慶長20年(1615)の同日に自刃した古田織部を偲び、新緑瑞々しい大徳寺四塔頭において、大々的に「古田織部四百年遠忌追善茶会」が執り行われた。木下 收(北村美術館館長)、林屋晴三(東京国立博物館名誉会員)、筒井紘一(今日庵文庫長)、鈴木皓詞(茶道研究家)など、当代一流の茶人を席主に、千人余りの茶人たちが全国より参会した。
本書は、茶人古田織部と対話したその一日と席主による設えの創意工夫を記録した図録である。
古田織部は、大坂夏の陣において、徳川軍の留守を狙って二条城を略奪するという陰謀を企てたとされ、家康の命により伏見木幡の屋敷で自刃して果てた。時に慶長20年(1615)6月11日、
73歳であった。
天文13年(1544)、23歳の利休が初めて堺の町に茶人として登場した年に織部は美濃国に誕生した。利休と昵懇になったのは、秀吉時代に入る天正10年(1582)前後の30代後半であった。織部はその茶風に急速に傾倒していった。利休が切腹して果てるまでの10年間は、利休の個性が次々とあふれでてくる時期である。利休の茶を本当に理解できたのは、息子の道安や少庵、山上宗二、古田織部など、ほんの一握りの人に過ぎなかった。織部が、「利休七哲」といわれる武将達の中で一頭地を抜いたのは、茶道に対する「執心」の深さであろう。
織部の茶法は、利休の死後間もなくして大きな変化を遂げることになる。徳川二代将軍秀忠の茶道指南をするようになった織部は、利休流の極わびを抜け出して武家風を強調しなければならなくなる。織部好みの茶席の代表に藪内家の燕庵があるが、それは利休好みの二畳敷「待庵」とは違った三畳台目で、大きな窓による陽性と相伴席の付属を特色としている。利休の死後一世を風靡した織部の茶であったが、利休と同様に数奇な運命を辿り、多くの謎を残した生涯であった。
(「序」より抄録)
【目 次】
口絵カラー32頁
黄梅院席(濃茶席:昨夢軒、薄茶席:玄徳軒)
芳春院席(濃茶席:書 院、薄茶席:高林庵)
総見院席(濃茶席:香雲軒、薄茶席:書 院)
瑞雲軒(展観席、点心席)会場風景
序 (筒井紘一)
茶会記・席主のことば
木下 收・林屋晴三・筒井紘一・宮下玄覇・鈴木皓詞・菱本芳明
古田織部四百年遠忌追善茶会拝見記 (柴原宗久)
古田織部に関する誤伝と道統 (宮下玄覇)
唯一の織部流数寄者岡崎淵冲 (同)
ジャーナル「織部」 (依田 徹)
付録 古田織部関係春屋宗園語録 (編集部)
A4判・上製・100頁(カラー口絵32頁)